2017年09月02日

「津波災害痕跡の考古学的研究」

考古学分野で色々と学ばせていただいている,斎野裕彦氏の博士論文がいよいよ発刊されるようだ。
Amazon.co.jpなどネットショップでは,予約を受け付けている。
考古学に興味のない人でも,自然災害,特に津波被害について関心のある人は必読・必携の一冊となるだろう。

詳しい内容は本書を読まないと分からないが,タイトル名と斎野氏のこれまでの発表論文から推察するに,仙台市沼向遺跡や仙台市沓形遺跡で行われた自然科学分野と連携した詳細な調査結果を始め,仙台平野を中心とした歴史上の津波被害について,考古学視点から考察した内容となっていると思われる。また,考古学視点に留まらず,文献史学視点からの論文を発表されているので,そうした論考も含まれると思われる。もしかすると,第3回国連防災世界会議パブリック・フォーラムなどの内容から,近現代の津波被害についても取り上げられているかもしれない。

歴史上の津波被害痕跡の研究については,考古学分野,文献史学分野,自然科学分野など様々な立場から発表されているが,中には自説を強調したいがため,資料・史料解釈を歪曲しているのではと疑われるものもある。一方,斎野氏は,自身の専門分野である考古学資料であってもそのfactを慎重に吟味しており,そうした"fact"を積み上げた上で考察されているので,非常に説得力がある。文献資料解釈でも,文献史学研究者以上に慎重な史料批判を行っている。

今後の津波痕跡研究について,考古学分野はもちろん,文献史学分野や自然科学分野においても最良の調査研究マニュアルとなるのではないだろうか。


「津波災害痕跡の考古学的研究」
著者:斎野裕彦
出版社:同成社
出版年月日:2017年9月30日
ISBN:9784886217622
判型・ページ数:B5・256ページ
定価:本体9,000円+税
内容:東日本大震災を実体験した著者が、今後の防災を目的に、考古・文献・地質学などを駆使し津波災害痕跡の調査法とその分析法を提示する。
posted by itoh at 23:07| Comment(0) | 考古学 | 更新情報をチェックする

2017年07月02日

接ぎ木技術の起源は?

新約聖書に,次のような記述があるのを,今日初めて知った。
もしも,枝の中のあるものが折られて,野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ,そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら,
(「ローマ人への手紙」第11章17節,新改訳第3版)

もしあなたが,野生種であるオリーブの木から切り取られ,もとの性質に反して,栽培されたオリーブの木につがれたのであれば,これらの栽培種のものは,もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
(「ローマ人への手紙」第11章24節,新改訳第3版)

「ローマ人への手紙」は,西暦60年頃に使徒パウロが書いたとされている。
この聖書の記述から,古代ローマ帝国において,
(1)オリーブに野生種と栽培種が存在していたこと,
(2)接ぎ木技術が行われていること,
(3)接ぎ木技術の特性が理解されていること,
が伺える。
なお,オリーブは,挿し木繁殖が比較的容易とされる樹種だが,古代ローマ時代,どのような目的でオリーブを接ぎ木していたのか,興味あるところだ。
posted by itoh at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | 更新情報をチェックする

2017年06月30日

研究者は,すべての事物を知ってるわけではない

「日本人は大災害をどう乗り越えたのか 遺跡に刻まれた復興の歴史」を読み終えた。本書は,えどはくカルチャーとして2016年6月から7月にかけて計7回開催された講演記録をまとめたもの。全体的には興味深い内容だったが,少し気になる点もあった。

特に,北原糸子氏の講演記録である6章「江戸時代の大災害と時代の転換」における天地返しの解説には,大いに疑問を持った。
富士山寛永噴火後のハタケの復旧において,天地返しの痕跡が確認された横野山王原遺跡の解説で北原氏は,
また「天地返し」という方法で穴を掘って砂を埋めて,その上にまた耕作に可能な土を置いて,畑をつくり直すということをやっています。現代でも東日本大震災で原発被害にあった学校のグラウンドなどで,放射能汚染土をこうした天地返しによって土砂を埋め込んだと聞いています。土壌改善の伝統的な方法だったのだろうと思います。
(179ページ)

と述べている。しかし,耕作地の土壌改善を目的とした天地返しと放射性物質による汚染土壌の除染対策としての天地返しは,その目的は大きく異なる。目的が異なるため,天地返しの方法は同じではない。そうした基本的な点を置いてこのような比較をするのは,問題だと思う。
放射性物質による汚染土壌の除染対策としての天地返しは,その目的から,放射性物質による汚染土壌をしっかり土壌中に埋設し,放射線量を下げることが目的。放射性物質による汚染土壌の剥ぎ取りも除染対策の一つとして実施されたと記憶しているが,剥ぎ取り後の汚染土壌の処理の問題があるため,天地返しという手段も用いられたはず。そうした背景をきちんと理解してれば,こうした安易な比較はできないだろう。
耕作地の土壌改善を目的とした天地返しの場合,耕作可能な土壌条件になればよいわけで,必ずしも表土と下層土壌を入れ替える必要はない。作物栽培が可能となるなら,降下した火山灰と土壌を混和させてもよい。
なお,北原氏はその上にまた工作に可能な土を置いてと述べているが,これがほかから土壌を持ち込むことを指すのであれば,天地返しではなく客土である。

また,次のような理解に苦しむ文章表現もあった。
川普請で問題なのは,川から水を引く樋が壊れてしまい,水を安定的に供給するためには,石垣なり,堤の築地をつくらなければならず,そのために乱流する川の流れを制御する牛枠など,水勢抑制装置をつくっていきます。
(188ページ)

私の理解不足の問題なのかもしれないが,この文章では,何が川普請で問題なのか,さっぱり分からない。
講演内容を基にしているとはいえ,本人校正を踏まえて出版されているだろうから,出版前にもう少し内容を再考し,きちんと修正すべきではないだろうか。
posted by itoh at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | 更新情報をチェックする

2017年06月23日

EFSAの亜硝酸塩・硝酸塩についての解説

2017年6月23日付け食品安全情報blogで、「EFSAは食品に添加される亜硝酸塩と硝酸塩の安全量を確認する」が紹介されている。
EUにおけるものだが、参考になる内容。
posted by itoh at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | 更新情報をチェックする

2017年06月18日

公害研究から見た学校教育

私にとって宇井純氏の著作は,林竹二氏の著作と同様,その執筆時期の新旧に関係なく,今に活きる優れた指摘が多い。両氏が,それぞれの立場から田中正造氏を取り上げているのも興味深い偶然である。

「宇井純セレクション」全3巻のうち,まだ読んでいなかった3巻を,ようやく最近になって読み始めている。まだ読み始めたばかりだが,「宇井純セレクション3 加害者からの出発」から,学校教育の問題について取り上げている部分を紹介する。

東大闘争の中で,航空学科共闘の学生は,現在の教育の問題点を,次のように指摘した。
「試験制度は資本の要求する能力に即して人間を序列化し,独占資本に役立つ能力所持者を選びとり,他をふるい落とすための装置となっている。この人間疎外は,具体的には,中学生,高校生,あるいは大学生の生活において点数尺度が物神化され,それによって測定される抽象的能力が人間的能力一般として映る事態となって現われてくる。たとえば成績が下がることは,それによって測定される限りでの一能力の相対的下降ではなく,彼の全存在の下降を意味してしまうのである。また数量化は個別性を無視する過程であり,自分自身で一生懸命に考えるよりも参考書の解法のパターンや教えられた解法を要領よく覚えて吐き出す方が容易に高い評価を受け得るという経験の反復は,学生に自主的思考を放棄させ(大学は自分が構造的に生み出してきたこの傾向にその根本原因を問わぬまま,ただそれではいけない,独創的たれと叱咤激励するのである),他者の個性的思考に興味をもって動かされる余裕も情熱も失わせることによって,個々人を相互によそよそしい存在として分断してゆく。さらにこの過程は,点数尺度の介入によって個々人が単なる競争相手と化し,共通の点数尺度上に明示される勝敗はそれが部分的一能力の尺度としてではなく能力一般の尺度として現われてくるがゆえに,その優劣が人格全体の優劣であるかのごとく映ることになり,そのため個々人が互いに直接的に人間としてぶつかりあう対等の他者ではなくなり,自分の上か下かに位置づけられ,しかもその上下いかんによって劣等感と優越感が生じるという事態によって促進されるのである」
(75~76ページ)

これは1970年に発表されたものだが,ここで指摘されている問題点は現在でも解消されていないのではないだろうか。むしろ,ここで指摘されている方向性にさらに突き進んでいるようにも感じる。

全体像を見るための歴史的感覚の必要性と,学校教育で日本史を必修にすることの間には,関連は全くない。王侯将相を中心とした,日本国至上主義の日本史によって,歴史的感覚が養われるのではない。かえって民族的独善と,他民族への差別を生み,国を誤るものになりかねない。だいたい今学校で教えている官許の歴史とは,科学的な歴史の名に値しないものなのである。今我々に必要なものは,現在を相対的に見る感覚である。そして日本をアジアの中の一つとして,周辺とのつながりでとらえる立場である。
もう一つつけ加えれば,小さな動き,遠くのニュースにも,鋭い感受性をはたらかせ,自分のことにひきつけて考える立場こそ,今求められている。それは夜郎自大,自民族優先主義をめざす,文部省官許歴史学とは対極にある。
(93~94ページ)

こちらは1989年発表だが,まるで最近の日本の状況を受けて書かれたかのような内容である。
私は,子どもの頃から考古学が好きで,今でも専門書を読んだり学会の研究発表やシンポジウムに時折参加しているが,学校教育における「歴史」の取扱いについては,宇井純氏のこの指摘に大いに首肯する。
posted by itoh at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | 更新情報をチェックする