2014年12月22日

下衆な相手

年末年始の読書用の1冊として『宇井純セレクション2 公害に第三者はない』を 購入し,少しずつ読んでいる。
『宇井純セレクション』のことは,中西準子氏の雑感685(2014年8月5日)で知り,そのうち購入しようと思いつつ,年末になってしまった。
3冊の中からとりあえず1つと思い,本屋で何度もパラパラ見て,まずは『宇井純セレクション2 公害に第三者はない』を選んだ。巻末の友澤悠季氏の解説でも述べられているように,「水俣病事件」という固有の時制と空間からすこし離れ,「公害」という切り口によって,宇井が同時代に発信したことがらを探ろうとするものである。(『宇井純セレクション2 公害に第三者はない』解説,372ページ)という視点で編まれた点に注目してのことである。
年末年始の読書用といいつつ,既に3分の1程読み進めたが,その中で特に印象に残った,次のような文章があった。
 もう一つ,日立を足尾ほど悲惨にしなかったのは,鉱山側のまともな態度です。いままでお話した鉱山側の細かい配慮は大正時代の古い話ではなくて,現代にも通用するはずの話です。
 もし通用しないとすれば,それは現代の資本家,経営者がいかに堕落しているか,あるいは技術者,科学者がこれもいかに腐敗堕落しているかのいい証拠です。そしてその実例を,われわれはたくさん経験しつつある。つまり相手が悪いんです。大正時代の久原房之助にくらべて,相手が悪い。いまわれわれが受けている公害は,ちょっと相手が下衆すぎるためなのです。
(「知られざる公害事件−日立煙害の教訓 東大自主講座「公害原論」」,148ページ)(強調はitohによる)

これは1970年に東京大学で行われた自主講座「公害原論」第6回講義録から取り上げられたもので,『公害原論』第2部に,本書より詳しくまとめられている。
1970年の講義内容ではあるが,現代社会における諸問題において,未だ「下衆な相手」が存在し続けているのではないだろうか。
表面上は多少マシになったかに見える政府や地方行政においても,その本質は1970年に宇井氏が指摘した「下衆な相手」のままではないのか。
様々な運動における体制側や反体制側それぞれと利害が合致した「学識経験者」が,相も変らず自身の営業活動の場としている現状は,「学識経験者」という「下衆な相手」が,1970年よりしたたかになっていることを示しているのではないだろうか。
引用した文章を読み,そのような事を感じた。

今回,自分の学習能力の低さに改めて気付かされた。先に挙げた文章は,『合本 公害原論』を読んだ際に目にしていた文章にも関わらず,記憶になかった。『公害原論』からの再録と記されていなければ,全く気付かなかったと思う。
posted by itoh at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする