2017年06月18日

公害研究から見た学校教育

私にとって宇井純氏の著作は,林竹二氏の著作と同様,その執筆時期の新旧に関係なく,今に活きる優れた指摘が多い。両氏が,それぞれの立場から田中正造氏を取り上げているのも興味深い偶然である。

「宇井純セレクション」全3巻のうち,まだ読んでいなかった3巻を,ようやく最近になって読み始めている。まだ読み始めたばかりだが,「宇井純セレクション3 加害者からの出発」から,学校教育の問題について取り上げている部分を紹介する。

東大闘争の中で,航空学科共闘の学生は,現在の教育の問題点を,次のように指摘した。
「試験制度は資本の要求する能力に即して人間を序列化し,独占資本に役立つ能力所持者を選びとり,他をふるい落とすための装置となっている。この人間疎外は,具体的には,中学生,高校生,あるいは大学生の生活において点数尺度が物神化され,それによって測定される抽象的能力が人間的能力一般として映る事態となって現われてくる。たとえば成績が下がることは,それによって測定される限りでの一能力の相対的下降ではなく,彼の全存在の下降を意味してしまうのである。また数量化は個別性を無視する過程であり,自分自身で一生懸命に考えるよりも参考書の解法のパターンや教えられた解法を要領よく覚えて吐き出す方が容易に高い評価を受け得るという経験の反復は,学生に自主的思考を放棄させ(大学は自分が構造的に生み出してきたこの傾向にその根本原因を問わぬまま,ただそれではいけない,独創的たれと叱咤激励するのである),他者の個性的思考に興味をもって動かされる余裕も情熱も失わせることによって,個々人を相互によそよそしい存在として分断してゆく。さらにこの過程は,点数尺度の介入によって個々人が単なる競争相手と化し,共通の点数尺度上に明示される勝敗はそれが部分的一能力の尺度としてではなく能力一般の尺度として現われてくるがゆえに,その優劣が人格全体の優劣であるかのごとく映ることになり,そのため個々人が互いに直接的に人間としてぶつかりあう対等の他者ではなくなり,自分の上か下かに位置づけられ,しかもその上下いかんによって劣等感と優越感が生じるという事態によって促進されるのである」
(75~76ページ)

これは1970年に発表されたものだが,ここで指摘されている問題点は現在でも解消されていないのではないだろうか。むしろ,ここで指摘されている方向性にさらに突き進んでいるようにも感じる。

全体像を見るための歴史的感覚の必要性と,学校教育で日本史を必修にすることの間には,関連は全くない。王侯将相を中心とした,日本国至上主義の日本史によって,歴史的感覚が養われるのではない。かえって民族的独善と,他民族への差別を生み,国を誤るものになりかねない。だいたい今学校で教えている官許の歴史とは,科学的な歴史の名に値しないものなのである。今我々に必要なものは,現在を相対的に見る感覚である。そして日本をアジアの中の一つとして,周辺とのつながりでとらえる立場である。
もう一つつけ加えれば,小さな動き,遠くのニュースにも,鋭い感受性をはたらかせ,自分のことにひきつけて考える立場こそ,今求められている。それは夜郎自大,自民族優先主義をめざす,文部省官許歴史学とは対極にある。
(93~94ページ)

こちらは1989年発表だが,まるで最近の日本の状況を受けて書かれたかのような内容である。
私は,子どもの頃から考古学が好きで,今でも専門書を読んだり学会の研究発表やシンポジウムに時折参加しているが,学校教育における「歴史」の取扱いについては,宇井純氏のこの指摘に大いに首肯する。
posted by itoh at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | 更新情報をチェックする