2011年11月05日

畝山智香子氏著「「安全な食べもの」ってなんだろう? 放射線と食品のリスクを考える」

2011年10月末に,畝山智香子氏の新著が発行された。
畝山氏が自身のblogでも書かれておられるが,本書のうち第1章から第3章は,
この本は食品の安全性について,特に食品中に含まれる発がん物質を中心に放射線による発がん影響と比較しながら説明しようとしたもの
(1ページ「まえがき」)

となっており,第4章は,畝山氏のblog「食品安全情報blog」で紹介された情報の幾つかがまとめられている。
「発がん性」をキーワードとして,私たちの身近にある一般的な食品(焼き鳥,コメ,飲料水,ヒジキなど)と低線量放射線被曝を比較して,その健康リスクについて解説している。専門用語が多く出てくるものの,全体的に分かりやすく解説されており,一気に読んでしまった。
畝山氏がblogで,
この本を読んで、○○も××もこんなに危険なんだ、とかえって心配になってしまわないといいのですが。

と書いておられるように,本書で解説されている内容について,受け取り方によっては今まで以上に不安を持つ人もいるかもしれない。しかし私たちは,東日本大震災以前から本書に示されたリスクに曝されて日常生活を送って世界有数の長寿国となっている事実を冷静に考えるべきだろう。
今春,北陸を中心に発生したユッケによる集団食中毒(死者5名)や,ドイツを中心に発生したスプラウトによる集団食中毒(死者37名以上)は,いずれも食品から感染した腸管出血性大腸菌が原因と考えられている。また今夏,アメリカ合衆国で発生したメロンによる集団食中毒(死者25名以上)は,リステリア菌が原因と考えられている。
また食品リスク以外にも,私たちの日常生活には,自動車事故などの多くの高リスク事案が存在しており,実際にそれらが原因で生命を落とした人も多くいる。
冷静に現実を直視し,私たちが取るべき現実的なリスク低減は何なのか,改めて考えてみる必要がある。

本書には,次のような記述がある。
科学を「やさしいことば」で説明すると,実はまったく理解できていないのに理解した気になってしまうことでかえってコミュニケーションがうまくいかなくなることがあり,難しい問題です。
(39ページ「第2章 いろいろな食品の発がん物質」

価値観の違いが意見の違いの原因であるならば,意見をすり合わせるのに必要なのは科学的根拠ではないでしょう。
(123ページ「第3章 リスクとうまくつきあっていく」)

一人一人にとって,あるいは同じ人生のそれぞれの時期において,何が一番大きなリスクで,何が一番大切な価値なのかは違うので,だれにでも当てはめられる「正解」はありません。
(130ページ「第3章 リスクとうまくつきあっていく」)

現在の日本の状況を見ていると,とても強く印象に残った文章である。
水道水を避けてミネラルウォーターに群がる大人たち。しかし,発がんという点からは,一時的に検出された放射性ヨウ素よりもミネラルウォーターの方が高いリスクだった。
しかも,首都圏でミネラルウォーターに大人たちが群がっていた同時間,ライフラインが未だストップしていた被災病院では,重篤患者を中心に生命の危機にあった。また多くの避難所では,1日1~2回程度の食事と限られた飲料水の支給しかなく,自宅避難者も,カップラーメン数個を買うために寒さの中数時間も並んでいた。いつまで続くか分からないこのような状況の中で,ひたすら毎日を「生きる」ために必死だった。

本書では,放射線と食品のリスク比較した事例が多く取り上げられているが,私は次の記述に特に注意を引いた。
まず食品について。
測定できないものが存在しないわけではないし,現実的に測定(この場合は厳密には定量)可能なもののほうが少ないというのが普通の食品です。
(94ページ「第2章 いろいろな食品の発がん物質」)

食品中に含まれる毒物の中には,致死量であっても検出できないものすらあるのです。
(95ページ「第2章 いろいろな食品の発がん物質」)

そもそも食品そのものがそれほど「安全」ではないということ,その食品のもともとの安全性の領域よりはるかに小さいところで多少数字が上下しても,全体の安全性にはほとんど影響しないのです。
(94ページ「第2章 いろいろな食品の発がん物質」)

一方,放射線について。
ごく微量で検出でき(測定感度が高い)てほかのものと間違えずに区別でき(特異性が高い)て,比較的簡単(分離や抽出などの前処理に何時間もかかったり検体が大量に必要だったりしない)に,ものによっては表面からだけの検査だけで測定可能という性質は,食中毒菌や食品中化学物質ではほとんどあり得ない理想的なものです。いろいろなものの放射能汚染状況を測定することで安心できるということが成り立つとすれば,それは放射性物質だからなのです。
(94-95ページ「第2章 いろいろな食品の発がん物質」)

そして,両者を比較して。
検査では安全性がまったくわからないものであっても,安全性を確保しなければならないのが食品の安全管理なのです。ですから「放射能は目に見えないから怖い」という主張には異議があります。
(95ページ「第2章 いろいろな食品の発がん物質」)

また,私たちに身近にあって,低線量放射線被曝以上にリスク低減対策が求められるべきタバコや飲酒ついて。なお,カッコ内はtahata加筆部分。
食品添加物や残留農薬でがんになるとか,ほんのわずかでの(放射性物質による)被曝でもがんになるとか脅かしながらタバコや飲酒についてまったく触れない人がいたとしたら,その人の目的はあなたやあなたの家族のがんリスクを減らすことではない,でしょう。
(119ページ「第3章 リスクとうまくつきあっていく」)

お酒は飲むけれど放射線被曝はどんなにわずかでも許容できない,というのはダブルスタンダードと言われてもしょうがないでしょう。それは科学的判断ではなく政治的判断です。個人が政治的判断をすることはごく普通にあることですし別に問題はありませんが,それを普遍的科学的であるかのように主張したり他人にも求めたりすることは間違いです。
128ページ「第3章 リスクとうまくつきあっていく」)

畝山氏は宮城県出身で,ご両親は現在も宮城県で農業を営んでおられるようだ。そのような立場からも,東日本大震災や福島第一原発事故による放射性物質汚染の問題に憂慮されていることと思う。ただ,既に放射性物質が放出されてしまった現状下で生きていくためには,ゼロリスク神話に囚われた過剰な対応ではなく,冷静な判断・対応が必要であることを主張されているのだ。決して,放射線の影響を過小評価(そして過大評価も)しているわけではないだろう。この辺りについては,「第3章 リスクとうまくつきあっていく」132ページ掲載の図3に集約されている。今私たち一人一人が本当に考慮すべき点が,この図で表現されている。ぜひ本書を手に取ってじっくり眺めて欲しい。

畝山氏は,次のようにも言っている。
一定以上の安全性のレベルなどというものはその国や地域や家庭の経済状態に依存します。
(133ページ)「第3章 リスクとうまくつきあっていく」)

同様のことは,中西準子氏も以前から主張されている(例えば雑感471)。未だに,国民のため或いは子どもたちのための健康対策には糸目は付けてはいけない,といった主張がマスメディアの論評やいわゆる市民団体の主張などで散見される。しかし,それは明らかに間違いだ。予算取りのための事業など存在理由のないものに費用を使う必要はないが,限られたリソースをどのように使うのか,優先順位を適切に決めて対応していくのは当然である。例えば,日本の国家予算全てを放射性物質の除染費用に使うことを,私たちは許容できるだろうか。
posted by itoh at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境,食品,農業 | 更新情報をチェックする
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