2012年12月23日

実験とは何か

2011年12月22日,23日に東北大学で行われた,第26回東北日本の旧石器を語る会に参加した。
1日目のミニシンポジウム「動作連鎖と技術組織の理論と実践」の終盤で,各発表者から石器属性の定量化や統計学利用について意見が出された。それらの是非は,発表者によって意見が分かれた。
発表者の一人である大場氏は,
痕跡の数値化,類型化はできない(あまり意味がない)。
(予稿集67ページ)
という意見を,
同じく発表者の一人である会田氏は,
さまざまな統計的手法を駆使して,もとめる形や技術を追い求めた。しかし,答えは見えなかった。
(予稿集26ページ)
との意見を述べていた。
自然科学分野においても,すべてのデータが統計処理されるわけではない。そういう意味においては,先の大場氏や会田氏の意見には首肯できる。

何らかのデータが得られたから統計処理してみるという発想は,統計処理利用において馴染まないと思われる。自然科学分野における実験においても,そうした発想で統計処理を行うことは基本的にない。
最初に実験計画法に基づく実験計画が作成された後,実験の実施→データの取得→データの取りまとめ→データの解析→次回への課題抽出,といった手順で進められる。
計画作成の際,まず何を明らかにするかポイントを絞る。また,実験の際に生じるであろう様々なエラーを考慮し,実験計画法に基づいて試験区や反復数などを設定する。
ただ漠然と実験するわけではなく,計画段階で目的を明確にし,その目的に対応した実験計画を組むのである。

ここで誤解してはいけないのは,恣意的に実験を行うのではないということである。実験計画に基づいて実験を行うことと,求める結果を得るために恣意的に実験を行うのとは違う。どの科学分野においても,恣意的な実験は結果の捏造と同じであり,研究者としてのモラルが大きく問われる。
このような意味においては,大場氏の「石器製作実験において,求める属性を出すように石器製作することは可能だ。」といった趣旨の発言は,本人は気づいていないだろうが,かなり深刻な問題を孕んだ発言である。
大場氏のような非凡な石器製作者であれば,先の大場氏の発言は実現可能と思われる。しかし,それを科学的な実験で行うことは,先に指摘したように捏造と変わらない行為である。2000年に発覚した旧石器捏造問題を受け,学術研究として再出発したはずの日本旧石器学界において,将来を嘱望されている若手研究者からこのような発言が出てくることに,私は大きな違和感を覚えた。

自然科学分野においても,自分の望む結果を恣意的に導くような実験を行うこと,もしくはデータを捏造することは可能である。しかし,ほとんどの研究者はそのような捏造行為は行わないし,仮に実験結果が予想に反したものであっても,そこから実験計画の問題を読み取って次に繋げるのが一般的な研究手法である。

旧石器捏造問題以降の日本考古学界において,学際研究の重要性が改めて主張されているが,それは単に他分野の技術的援用だけではなく,研究アプローチや研究哲学等も含めたものであるべきではないだろうか。この点は,阿子島氏が指摘された,考古学研究における哲学の重要性にも繋がるのではないかと思われた。

なお誤解のないように明記しておくが,私は,大場氏が捏造を行っている,或いはその可能性があるとは思っていない。前述のような発言をもたらしている,大場氏の実験に対する考え方に疑問を持ったものである。
posted by itoh at 21:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 考古学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今頃になって、この記事が掲示されていることに気づきました。

まずは、当日に深い議論にならなかったので、貴重なご意見を表明されていることに、とても感謝いたします。ですが、なぜ当日のシンポ、あるいは会場でお話しされなかったのか、議論することができなかったことを、たいへん惜しく感ずるとこでもあります。ただ、本人の知らないところで、批評されるのも、正直な話、あまり気持ちの良いものではありません。

しかしながら、大変意義のある内容ですし、議論が深まるものと思いますので、コメントさせていただきます。

さて、技術学における実験は、「推定が確かであることを意図して」行われます。その意味では、「恣意的」であると感じられるかもしれません。だからこそ、手の内をすべて開示する思いで、どのように実験をしたのかの詳細を示し、かつ同定の根拠になった痕跡を数多く取り上げて蓋然性を高め、また対照となるほかのテクニークの痕跡についても合わせて提示することを努めておりますつまり、他者が「再実験」・「再検証」ができるようにしているのですもし、示したテクニークで再実験ができないとすれば、私の開示の仕方に問題があるわけですし、改善しなくてはなりません(相当に努力しているつもりではありますが)。そもそも、テクニークを紙媒体で示すには限界がありますし、ほかの表現手法が必要だと思っております。

それから、仮に再実験で、示した痕跡が生じないとしたら、私の実験に不備があるわけですし、その批判は甘んじて受けざるを得ません。また、集めた痕跡から、ほかの可能性がないのかを考え続け、ある場合は想定し得る限りの可能性を、正直に出す。さらに、結論を出して以降も、ほかの可能性がないのかを考え続け、あるいは批判的なチェックを受けることに心がけています。

私自身、ねつ造事件の渦中にいましたし、その後の検証活動に携わっておりました。袖原3と上高森の検証調査で、ねつ造痕跡を掘り、詳細に記録を取り、それぞれのねつ造行為の復原もいたしました。

発覚以前、よく耳にしていたのは、「出るのだから仕方ない」といった話しでした。
火砕流堆積のなかでも、石器が出る遺跡は藤村氏が関与した遺跡しかないということでも、「出るのだから仕方がない」という発言です。相手を信頼していたから、そのように穿った見方をしない(したくない)のは、「よき友人関係」があったからなのでしょう。
しかし、いまよくよく考えれば、それはあまりにも無邪気な無批判性であった、と言わざるを得ません。

一歩引いて、「前期旧石器」が出土した時に、1点1点の出土状態を克明に観察し、記録し、「なぜ出土したのか?」と、批判的に考えることが、あの当時はありませんでした。ねつ造行為の痕跡は、十数年経っていても残るものです。ナイフや移植ごてを刺し入れたときに生じる土壌の動きや、ナイフや移植ごてを刺したことで生じた空隙に入り込んだ泥や植物の根など、本来の出土状況ではまずありえない痕跡が明確に残ります。あの時に、そのような批判的な視点があれば、早い段階でねつ造を見抜けたのかもしれません。

しかし、あのころは、残念ながら、出土したらすぐに取り上げてしまうことが常態化していました。遺物の出土状況は、取り上げてしまったらすぐに失われてしまいます。取り上げて、また再び同じ位置に置き直したとしても、空隙があったり、遺物だけが不自然に乾燥したり、場合によって取り上げたことで、遺物の周辺の土が崩れてしまったりします。置き直しをした場合に、写真を見てすぐにわかってしまいます。

発掘調査とは、1回性のことですし、追試することが難しいものです。であるからこそ、本来はその発掘調査を検証することができる、追試することができるくらいに詳細に、記録を残すべきであったのだと思います。「火砕流堆積物から石器が出ているのはおかしい」、「藤村氏が関与した遺跡しか出ていない」といった批判をかわすためにも、石器が確実に出ていることを記録し、提示するべきであったと思います。仮に、あの当時そのような視点や行動があったのなら、自助努力でねつ造を見抜けたはずだと、思っております。

いま、埋文行政に職を得て、私自身が携わった調査では、まだ試行錯誤の段階で不充分ながらも、上記のことを常に頭に入れながら望んでいるつもりです。誰でも、再実験・再検証できるように、意識的に実験方法(テクニーク)とデータを開示しているつもりです。ですので、「ねつ造」を経験していない、反省していないようなこと言われると、正直きわめて遺憾です。ただ、語る会の時に、その辺を十分に話さなかったのは、私の落ち度でもあります。

ねつ造を経験して、そしていまの技術学という研究法を知って・実践していて思うのは、誰でも検証できる「解釈」を示すこと、そしてそのうえでの科学哲学の重要性です。いわゆる「解釈」が、ただの仮説にすぎないことを指摘したのは、R.ビンフォードでした。技術学は、フランス実証主義に基づく科学哲学に立脚しており、検証することを常に念頭に置きながら分析を進めていきます。ルロワ=グーランも、ジャック・ペルグランも、常に科学性について主張しております。資料を正しく認識し、事実をより多く集めたうえで仮説を立て、検証する。実験でも、実験ではない考察(「日本考古学」で言う「解釈」)でも、常に同じ手順で進めていきます。

過去に示された実験例や記録された民族事例についても、再現し、検証して、その妥当性、あるいは否定をしているつもりです。それは、これまでの「無批判性」に対する反省の上でのことであり、実験例や民族事例だけでなく、これまでのいわゆる「解釈」についても、同じ姿勢を取っております。

ちなみに、概説書や博物館などで描かれている「石器作りのイラスト」は、その無批判性を端的に示しており、誤った、デタラメなものがほとんどで、実際にイラストと同じようにやってみても、作れないものばかり。それが、いまだに横行しているのが現状です。

「旧石器捏造問題以降の日本考古学界において,学際研究の重要性が改めて主張されているが,それは単に他分野の技術的援用だけではなく,研究アプローチや研究哲学等も含めたものであるべきではないだろうか。この点は,阿子島氏が指摘された,考古学研究における哲学の重要性にも繋がるのではないかと思われた」という趣旨は、おそらく技術学についてあまりご理解いただいていないことと存じますが、残念ながら的を射ていません。

「日本考古学」の検証されない「解釈」の山を見て、悲観された山中一郎先生は、「日本考古学」の方法の欠如と方法の必要性を、かなり前からご主張されておられました。私たちもまた、同じく方法と科学哲学の必要性を主張しております。私たちの技術学が「他分野の技術的援用」と思われてしまったのは、私たちの主張の足りなさからくるのかもしれません。

データの改ざんやねつ造は、再実験や検証作業をすればわかることです。そのことを常に意識して、論文を書き、発表し、あるいは人前で実演をしているつもりです。誰でも、やれば確認できることしか、公にしていないつもりです。事実、石割りをしている人は、私たちの実験データに対してご理解されている方がほとんどです。「誰でも」とは言えでも、石を割っていない人は、「わからない」のかもしれません。でも、身体的な問題を除いて、『非凡な才能』でなくともある程度練習すればできるようになりますし、やればわかるはずです(私は「非凡」ではなく、広く見れば、先史人に比べれば、謙遜ではなく「平凡」です)。

逆に、再実験もしないで批判をご主張されることには、残念でなりません。批判的に物事を捉えるのは、科学的態度としてまっとうなことですが、さらに一歩進めて実験し、検証することも、科学的な態度として必要なことではないでしょうか?そして、実験し、検証してテクニーク復原の誤りを指摘し、それを踏まえたうえでのほかのテクニークの可能性を新たに主張することのほうが、より生産的に議論できるのではないでしょうか?

取り止めのないコメントになってしまい、たいへん申し訳ありません。
機会があれば、会ってお話しできればと思います。
Posted by 大場 正善 at 2014年01月21日 19:47
大場さん,コメントありがとうございます。

数年前の研究会のことなので記憶定かではありませんが,当日は時間的な制約もあり,本エントリーで取り上げた大場さんの発言に対して意見等を述べる機会はなかったように記憶しています。そうしたこともあり,本エントリーを書いたと思います。また,公開の研究会での発言だったので,取り上げさせていただきました。

コメントで大場さんが述べられた実験の方法や旧石器捏造問題に対するご意見については,同意します。また,大場さんの石器復元作業を何度か拝見しており,その作業に疑義をはさむつもりもありません。

私が問題としたのは,科学的な実験について大場さんが,「石器製作実験において,求める属性を出すように石器製作することは可能だ。」といった趣旨の発言をされたことです。
実験には,実験者の意図する期待があることは自然科学においても同じですが,だからといって恣意性をもって実験することは許されません。これは考古学における実験も同じことだと思いますし,その点は大場さんも十分理解され実験されていると思います。先に挙げた発言は言葉の綾だったのかもしれませんが,そうであってもこのような発言は現に慎むべきと感じ,本エントリーを書いたものです。

旧石器捏造問題と考古学における学際研究について触れたのは,大場さんに解説いただいた石器技術学に対するものではなく,もっと全般的な意味合いにおいてです。強いていえば,本エントリー前段で触れた統計学的手法導入の是非に関するものです。
私の意図をきちんと表現できていなかったのであれば,それは私の文章力の無さに起因するものですので,お詫びします。

石器技術学に対する私の理解は,大場さんに比べればその多くを理解できていないのでしょう。「古代文化 第58巻第4号」などを読みましたが,大場さんを始めとする各著者の意図の多くを未だに理解できていないと思います。それでも,テクニークとメトードの考え方は,考古学のみならず私の所属する農学分野においても非常に大きな意義を持つと思い,研究会にも参加したところです。

最後に,「再実験もしないで批判をご主張されることには、残念でなりません。」について。
大場さんご指摘のとおり,私も石器製作実験を行った上で議論したほうが,より生産的なのは同意しますが,そうしなければ発言を慎むべきということでしょうか。考古学に関心を持ってはいるものの,大場さんが行われているような実験を私も行うことは,少なくとも現時点では困難です。また,農学分野に所属する私は,考古学関係の研究会・学会に参加しても,質問以外の発言は許されないということでしょうか。そういうことであれば,今後私は考古学と関わることを止めるべきなのでしょう。
私の知る範囲において,農学分野ではそのような意見を聞いたことがありません。
Posted by itoh at 2014年01月21日 22:57
リコメントありがとうございます。また、意義のあるご意見をいただいたのに、私のコメントが少し失礼な書き方になってしまい、たいへん申し訳ありません。実演も見学されているとのこと、itoh様のお顔を拝見されているのかもしれませんね。何かの機会がございましたら、ぜひ声をおかけください。

itoh様と私との「科学(的方法)」に対する考え方が異なっているかもしれません。また、「石器製作実験において,求める属性を出すように石器製作することは可能だ。」という私の発言は、言葉足らずであり、確かに慎むか、あるいは十分に説明すべきことでした。

分析過程は、「観察」→「仮説」→「実験」→「検証」といった手順で行われるものと思います。資料を観察し証拠を集め、観察から得られた証拠を基に仮説を立て、仮説の妥当性・蓋然性を確かめるために実験を行い、実験資料と観察資料を対比することで検証を行う。この手順は、技術学だけでなく、法科学や物理学の破損解析などでも同じような手順を踏みます。

問題の実験なのですが、「実験には,実験者の意図する期待があることは自然科学においても同じですが,だからといって恣意性をもって実験することは許されません」とは言え、では実験計画段階で恣意性を一切排することができるのでしょうか?仮説を立てた段階で、ある程度結論が見えているわけですし、むしろ恣意性を排して数多くの実験を行うことは、実践する上でも経済的にも合理的と言えません。技術学のおける実験の位置付けは、ある意味「確証する」ために行うのです。それが「ねつ造」的であると思われるかもしれません。ですからこそ、実験と同定が適当であることを示す上で、実験での方法を開示し、同定の根拠となった痕跡を数多く挙げ、いくつかの比較対照となる実験例を挙げるわけです。この分析過程は、19世紀の実験医学を確立し、グリコーゲンの作用の解明をはじめ、生理現象を実験的に解き明かしたフランスのC.ベルナールの方法に拠っています。また、従来の「日本考古学」の「実験考古学」とも異なった考え方です。

おそらく、itoh様と私との違いは、ここにあるかと思います。

「観察の理論付加性」と「アブダクション」はご存知でしょうか?

観察の理論付加性は、「観察は、理論と無関係に、理論に先立って行なわれる」のではなく、「観察は理論(または観察者があらかじめ持っている知識)をとおして行なわれる」、「観察は理論を背負っている」という考え方です。つまり、痕跡を観ても、知識がなければ判らないし、目にも止まらない。私たち技術学派は、分析者は石割りの知識、すなわちさまざまな成句道具やテクニーク、そしてテクニークごとに生じる痕跡の知識と経験があるということが前提になります。もちろん、はじめからア・プリオリに資料を観ることは厳禁ですし、はじめは「空白の目」で観ることが求められます。

アブダクションは、アメリカの論理学者が提唱した、帰納法、演繹法に次ぐ第三の推論法で、「起こった現象を最もうまく説明できる仮説を形成するための推論法で、仮説形成の論理とも訳される」ものです。詳しい解説は、米盛裕二 2007 『アブダクション―仮説と発見の論理』をお読みください。ごく簡単に言うと、演繹法は、「カラスの羽は黒い」→「あの鳥は、カラスである」→「ゆえに、このカラスも黒い」というように、論理としては強いものの、新しい情報は増えません。帰納法(枚挙的帰納法)は、「あのカラスは、黒い」、「あのカラスも、黒い」…→「ゆえに、カラスはすべて黒い(かもしれない)」というように、論理としては弱いものの、情報は増えていきます。アブダクションは、「あの鳥は、黒い」→「黒いということは、カラスであるとうまく説明できる」→「ゆえに、あの鳥は(たぶん)カラスである」というように、論理としては演繹よりも弱いですが、結論を仮定すると、前提がうまく説明され、情報量も増えます。ただし、アブダクションは、事前に何らかの知識がないと、前提をうまく説明する仮定(仮説)を作り出すことができません。つまり、「観察の理論付加性」です。このアブダクションの考え方は、技術学の分析過程でも同じです。仮説は、やはり仮説ですので、仮説の蓋然性を高めるために、検証を行うのです(仮説検証法)。

「恣意的でない実験」とは、論理的にありえません。そのことをうまく説明しているのがアブダクションであり、最近の科学哲学書でも、仮説形成の論理として注目されているものです。私は、農学における「科学」の考え方については、知識を持ち合わせておりません。が、技術学のほか、知り得る限り法科学、破損解析、一部の歴史学(『新しい歴史学』、社会史など)などでも、「アブダクション」と明記されてないぼもありますが、同じような分析過程となっています。


「発言は許されない」、「考古学に関わること止めるべき」ということでは、まったくありません。むしろ、積極的に参加していただきたいです。itoh様のような他分野からの意見は、たいへん貴重であり傾聴すべきことです。だからこそ、直接お話をいただきたかったのです。

インターネット上は、いくら個人の感想やたわごとであったとしても、本人が意図していないほどに公開されるものです。たとえば、ツイッターやSNSで書いた、ほんの些細なことが大きな事件を引き起こしてしまうように、書いた内容について、倫理的にも十分に吟味したうえで、責任を持って公開するべきと思います。本記事の内容は、たいへん示唆に富むものですが、うがった見方をすれば、私個人に対する攻撃にも捉えかねません。もちろん、itoh様にそのような意図はまったくないことは承知の上ですが、人によってはそのように捉える場合もあると思います。

以前、私は五十嵐彰さんという方のブログで、昨年の9月に長野で行われたシンポジウムの予稿集に載せた私の論文について、批評をいただきました。五十嵐さんとは、メールや手紙でのやり取りぐらいしかしていませんが、それでも、ブログに記事を掲載する前に、事前に通知して下さいました。ネットという公開の場で、批評することは、それなりの影響が生じることもあるのであり、それを受ける側を配慮する必要があるのではないでしょうか?、とういうことなのです。少し、厳しい書き方になってしまいましたが、これが正直な気持ちです。

ルロワ=グーランや山中一郎先生の一連の著作をすべて読み、私や会田容弘先生、粟田薫さんと高橋章司さんの著作を読んで、さらに私たちと議論されれば、技術学について深くご理解なさると思います。ですが、まだまとまった著書もないですし、山中先生の著作も手に入りづらい状況です。なかなか、理解が難しいし、必然的に疑問が生じるであることも十分に窺われます。そういった疑問や質問については、積極的にご発言いただきたいのですが、シンポジウムや研究会の討論での発言、あるいは直接本人に話される、メールなどでされるのが望ましいのだと思います。

「再実験もしないで批判を主張される」とは、若干言葉過ぎました。たいへん申し訳ありません。意味するところは、十分に理解されず、また技術学研究を実践されていない、技術学という方法を検証されていない段階で、批判を主張するのはお互いにとっても、あまり好ましくないのではないでしょうか?水掛け論になりかねませんし、生産的ではないということです。まったく、itoh様とケンカをしたいとも思っておらず、むしろお話をお聞かせいただきたくと思っております。

農学については、恥ずかしながら私は十分な知識を持ち合わせていません。土壌学や地面に残る農機具の痕跡については、勉強しているところではありますが、農学自体をよく知りません。ですから、むしろitoh様に教えていただきたいと思います。
Posted by 大場 正善 at 2014年01月22日 17:22
大場さん,今回も興味深い解説をいただき,ありがとうございます。

実験における恣意性について,大場さんの解説に同意します。

私が,恣意性をもって実験することは許されないとしたのは,実際に実験を行う場面においてです。
例えば,果実品質向上が期待できるA処理をリンゴ樹全体に処理したとします。A処理の効果を確認するために果実をサンプリングする際,通常はリンゴ樹の特定の場所からサンプリングせず,リンゴ樹全体からなるべく平均的にサンプリングします(東西南北方向から同数をサンプリングする等)。全果実をサンプリングできればよいのですが,着果数が多い場合は現実的でないため,先に述べたように一部の果実をサンプリングすることになります。一方,A処理の有無に関係なく,品質良好な果実が多く着生する場所はあります。また,果実外観の違いから,ある程度品質良好な果実を判断することは可能です。そのため,恣意的に品質良好な果実のみをサンプリングすることも可能となります。
私の言う恣意性とは,後者の恣意的に品質良好な果実のみをサンプリングする方法を行って,A処理の効果をより良く見せようとする行為のようなものです。
本エントリーで取り上げた「石器製作実験において,求める属性を出すように石器製作することは可能だ。」という発言は,例として挙げた恣意性を私に感じさせる発言だったので,「かなり深刻な問題を孕んだ発言」としたのです。なお,大場さんが石器製作実験でそのようなことを行っているとは思っていませんので,「本人は気づいていないだろうが,」と前置きをした次第です。

情報の取り扱いについて。
大場さんのご意見を否定するわけではありませんが,公開の場での発言も含め,公開された情報については,自由な批評対象とされるべきであり,必ずしも情報元に事前の了解を取る必要はないと私は考えます。
もちろん,研究会等で情報の取り扱いについて説明があれば,その趣旨に従います。
大場さんの懸念される点もご尤もだと思いますので,その点については,文章表現において注意したいと思います。


大場さんが埋文に就職される以前,大場さんと名刺交換した記憶があります。
最近は考古学関係の研究会等にあまり参加できないため機会は限られますが,お会いした際には改めてご挨拶させていただきます。
Posted by itoh at 2014年01月25日 16:07
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