2010年07月03日

日本旧石器学会シンポジウム「旧石器時代研究の諸問題−列島最古の旧石器を探る− 」

2010年6月26日及び27日,明治大学を会場に,日本旧石器学会の総会,研究発表及びシンポジウムが開催された。
シンポジウムのテーマは「旧石器時代研究の諸問題−列島最古の旧石器を探る− 」で,大きな関心があったが,所用により参加できなかった。

このシンポジウムに参加した考古学研究者が,各々のblogでその参加記録をUPしていた。

八ヶ岳だより
2010年6月28日
砂原・入口遺跡の資料は人工品か! 【日本旧石器学会シンポ】

黒く光る石と黒く動く虫
2010年7月1日
後期旧石器時代をさかのぼる旧石器の存在
2010年7月2日
砂原遺跡と入口遺跡

2010年7月1日
研究室の窓
日本旧石器学会2010.6.27

いずれのblogでも取り上げられるように,初代日本旧石器学会会長でもある稲田孝司氏から,厳しいコメントがあったようだ。
長崎県入口遺跡及び島根県砂原遺跡の報道の問題は,以前から多くの考古学研究者が指摘している点でもある。
私は,考古学調査について,特に行政発掘の場合,そのほとんどが記録調査(発掘調査後に遺跡は破壊される)であるため,また情報公開が常識となった現在において,考古学研究上の評価よりマスメディアや一般への公開が先行されることは,ある程度やむを得ないと思う。
マスメディアがどのような偏向報道をするかは各報道機関の質の問題であるから置くとして,どのような条件であれ,情報公開する場合,その内容や公開方法はより慎重であるべきだろう。
また,一般公開に先立って,考古学研究者へ公開し,少しでも多くの考古学研究者が見た上で公開するといった努力も,調査を行う個人・組織には必要ではないだろうか。

マスメディアの対応については,旧石器ねつ造問題の時も多く議論されたはずだが,その後も,国立歴史民俗博物館の弥生時代開始期の年代観に関する研究を始め,考古学界ではあいも変わらず報道先行の風潮が抜けきれていないように感じるのは私だけだろうか。
そうした点からも,日本の考古学研究者の質が問われていることを,考古学研究者は自覚すべきだ。

シンポジウムの内容については,レジュメ集も入手していないので,前述のblogでのみその様子を知り得るだけだが,あまり具体的な議論は行われなかった感じを受けた。
いずれのblogも,稲田氏が批判的なコメントがあったことは触れているが,それ以外の考古学研究者からの発言や,発表者からの意見について,ほとんど紹介されていない。わずかに,稲田氏の砂原遺跡出土の「石器」へのコメントに対する調査担当者の松藤和人氏のコメントや,黒く光る石と黒く動く虫の主宰者であり当シンポジウムの発表者でもあった諏訪間順氏が自身の発表要旨を紹介している程度だ。

研究室の窓で書かれている,
「個別の遺跡の判断については言うことは、研究者としての責任だ!一つ一つの石器群の評価について、この学会のメンバーが判断を言わないでいったい誰が言うのか!」

という稲田氏の発言に,blog主宰者は,
記憶に残る言葉だった。

と言っているが,学術研究である以上,稲田氏の発言は至極常識的なものである。
また,稲田氏と松藤氏の議論について,
すごい議論だった。公開の学会で、こうした論戦が交わされたことがあっただろうか。稲田先生は敢えてこうした論戦見せ、他の研究者に範を示したようにも見えた。個別の石器群について個人の見解を表明することが研究者の責任である、ということを身をもって示された。

と紹介しているが,これも,学会発表という性質上,学術一般的には常識のことである。

私は学生時代は,一応農学,その中でも果樹園芸学を専攻し,現在の仕事も農学に関連した職場で技術職として働いており,考古学を体系的に学んだわけでもない,一考古学ファンといった程度である。それでも,何度か考古学関係の学会発表に参加したことがあり,理解の程度は別にして,専門文献も幾つか読んでいる。そうした立場から,日本考古学界を見ると,違和感を感じることが少なくない。
各分野特有の研究手法があるなど,学術研究といっても全て共通になるわけではないが,それでも,考古学界における学会発表,研究発表のあり方については,以前から大きな違和感を持っている。
そもそも学会発表は,学術雑誌発表も含めて,ある研究成果を発表すると同時に,他の研究者との議論のスタートであることは,全ての学術研究に共通するものである。
しかし,考古学界における研究発表は,時に「内輪の慰めの場」と揶揄されるように,発表者に対してねぎらいの言葉がかけられ,幾つかのアドバイスや事実確認がある程度で,全く無いわけではないが,あまり異なる意見が議論される場に立ち会った事がない。クローズドな研究会では違うのかもしれないが,そうした研究会は内輪で行われるため,その現状は知る由もない。
一方,農学においては多くの場合,立場に関係なく発表に対して質問・意見できる雰囲気がある。学会発表において,学生が質問・意見することは決して珍しくないし,発表者となることも珍しくない。
考古学・農学双方の研究発表会に何度か参加した経験からすると,全体的な印象として,どうしても考古学は閉鎖的な雰囲気,農学については解放的な感じを受ける。
前述の稲田氏の発言は,旧石器文化研究に限ったことではなく,日本考古学界の現状と問題点を端的に示しているのではないだろうか。その問題の深刻さを,どの程度,考古学研究者は自覚・認識しているのか,これは,旧石器ねつ造問題以降,一般市民から日本考古学界全体に投げかけられている疑問でもある。

そんな日本考古学界の現状を端的に表しているやり取りが,研究室の窓で紹介されている。
稲田先生の手が挙がった。「九州地方における最古の石器群の諸問題」という午前中最後の発表に対しての質問だった。「個別の遺跡について、どれが遺跡でどれが遺跡でないのか、発表者個人の見解を!」と迫まる質問だった。壇上からは答えられないが後ほど個人的に答えると発表者が回答すると、稲田先生が一喝した。
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2009年09月29日

島根県出雲市多伎町の砂原遺跡から,約12万年前のものと思われる石器が出土

MSN産経ニュースから引用。
なお,MSN産経ニュースのサイトには,石器や遺跡の写真も掲載されている。
国内最古の旧石器を出雲で発見 12万年前、これまでより3倍古く
2009.9.29 18:18

 国内最古とみられる約12万年前の旧石器時代の石器20点が、島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で出土し29日、同遺跡学術発掘調査団(団長、松藤和人同志社大教授)が発表した。国内ではこれまで3万5千〜4万年前の旧石器が最古とされていたが、8万年以上さかのぼることになり、日本列島に人類が存在したことを示す画期的な発見となりそうだ。

 同遺跡で地質調査をしていた成瀬敏郎・兵庫教育大学名誉教授(古土壌学)が8月、日本海から約100メートル内陸に入った地層面が見える崖(がけ)で石片を発見。松藤教授が鑑定したところ人為的に加工された石片の可能性が高いことが判明し、詳細な発掘調査を実施した。

 石器は、石英の一種の玉髄(ぎょくずい)製などで長さ2〜5センチ程度だった。いずれも人の手で割られたとみられる鋭い断面が確認された。この石器は、ナイフのように使った可能性もあるという。

 地層の分析で、石器の上40〜50センチに積もった火山灰層が約11万年前、近くの三瓶山(さんべさん)が噴火して形成された「三瓶木次(きすき)火山灰層」と特定。見つかった石器は、この地層よりさらに古いことが分かった。

 旧石器については平成12年、宮城県・上高森遺跡から出土した約70万年前とされた石器が、発掘担当者によって意図的に埋められた捏造(ねつぞう)と判明して以降、明確に旧石器と認められるのは、3万5千〜4万年前が最も古いとされてきた。

 松藤教授は「地層の状況から、年代をきっちり特定することができた意義は大きい」と話していた。

 調査報告会は10月4日午前10時半、出雲市の多伎コミュニティーセンター、調査速報展示は10月10〜25日で同市の県立古代出雲歴史博物館で行われる。



「捏造事件」のタブー破るか

 約12万年前の国内最古とみられる旧石器が見つかった島根県出雲市の砂原遺跡。平成12年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)問題の記憶がいまなお鮮烈なだけに、研究者の衝撃は大きい。

 「本当に石器なのか」という根強い疑問に対し、調査団は「さまざまな角度から検証した」と自信を深める。日本列島に人類はいつ出現したのか−。わずか数センチの石片が、謎を秘めた日本人のルーツに大きな一石を投じることになった。

 調査団長の松藤和人・同志社大教授は石器の年代について「科学的に時期が分かる火山灰層が何層もあり、年代に問題はない」と強調。旧石器捏造問題では、日本考古学協会調査特別委員会の総括委員として検証しただけに、自らの調査でも地層を丹念に調べた。

 「捏造問題以降、3万5千年前より古い旧石器研究はタブーになった。今回の調査は、及び腰だった研究者を励ますことになるはず」と松藤教授。韓国では50万年以上前の旧石器が発見されており、「中国大陸と地続きの時代があった日本列島に、12万年前に人類が渡ってきても不思議はない。日本の人類史の起源を探る重要な資料だ」と話す。

 「最古の旧石器」を証明するカギは、地層の年代とともに、石片が人工的に加工されたのかという点だ。石同士がぶつかって自然に割れた可能性も捨てきれないためだ。今回の石器のうち流紋岩製の1点(長さ約5センチ)は、石材をいったん厚さ1センチに割ったのち、さらに先端をとがらせるため細かく削り、突き刺す道具として加工した痕跡が確認されたという。

 安蒜(あんびる)政雄・明治大教授(旧石器)は「出土した石片は人工品とみられ、地層の年代も信頼性は高い」と評価する。

 ただし、自然に割れた石か、人為的な加工かを見分けるのは難しい場合も多い。白石浩之・愛知学院大教授(旧石器)は「玉髄の石片は人工的に打ち割った可能性もあるが、他の石片は不明瞭なものもあり、さらに詳細な調査が必要」と慎重な姿勢をみせ、今後の調査に期待を寄せた。

 一方、旧石器が出土した場所は海岸沿い。山間部で狩猟採集に励む旧石器人というイメージを一新する可能性も出てきた。松藤教授は「魚など海の幸を取っていたことも考えられ、旧石器時代の生活を復元する上で興味深い」と話した。

いずれ専門雑誌等に,遺跡の概要や写真,実測図が掲載されるだろう。
以前から感じていたが,確かに玉髄製石器の判別は確かに難しそう。

NHK-TVニュースで松藤氏は,「日本列島の人類史の起源を〜」と話していたのに,この記事では「日本の人類史の起源を〜」と”ねつ造”されている。
NHKウェブサイトの記事では,「日本人の起源を〜」と,これまた別の表現に”ねつ造”されている。
少なくとも古代以前に「日本」は存在しないし,旧石器時代の日本列島に生活していた人類は「日本人」ではないだろう。
また,「先端をとがらせるため細かく削り,」という表現,NHK-TVニュースでも「先端を尖るように石の両端の部分を敲いて削り落としたような」と報道しているが,明らかに変だろう。「石」の「先端(又は両端)」の部分を「敲いて」二次加工したと思われるのであって,「削り落とし」て二次加工したわけではないだろう。

現在の地形と旧石器時代の地形は異なるのに,何故松藤氏は「魚など海の幸を取っていたことも考えられ、旧石器時代の生活を復元する上で興味深い」とコメントしたのか。
このコメントのシーンを映像で確認したわけではないので,上記のように松藤氏のコメントを正しく表現していないかもしれない。
旧石器時代の立地条件を現在の立地条件を基に解説するのは,無理があるだろう。
松藤氏ほどの研究者が,そのようなコメントをするとは思えないが,もし記事にある通りのコメントだったとすると,あまりにも安直なコメントだ。

何にしても,年代の問題も含めて,専門雑誌への掲載やいずれ刊行されるであろう調査報告書で確認する必要がある。
学術的な議論は,その後からだろう。
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2009年02月20日

日本考古学協会設立60周年記念講演会●東北会場に参加して(2)

ここで述べる私見は,先の記事で述べた「2 旧石器捏造問題について,考古学界が教育関係や一般市民に対して,如何に社会的合意形成を目指してきたのか。」に関連するもので,質問用紙には書いたものの質疑応答の場では発言を省略した部分である。


開会挨拶等で旧石器捏造問題は取り上げられたが,話を聞いていて違和感を感じた。
それは,旧石器捏造問題発覚直後から開催された検証シンポジウムでも聞かれた,旧石器文化研究における(延いては日本の考古学研究における)問題点の指摘や反省に終始していたためだ。
旧石器文化研究における問題点の抽出や,今後の研究に対しての留意点をまとめる作業は,確かに必要だ。しかし現在では,(異論もあるだろうが)この点は一応の決着をみている。これらは,あくまで研究者としての反省や将来への展望である。

一方,日本の考古学研究者の多くは大学教員,文部科学省関係機関,地方自治体の教育委員会に所属する職員であろう。つまり,学校教育や生涯学習など,国民や地域住民の「教育」に深く関わっている立場の組織構成員である。しかし,日本の考古学界からは,教育に関係する立場からの反省や将来への展望は,ほとんど聞くことがない。
今回の講演会は一般向けであり,こうした場でこそ,様々な教育の場における旧石器捏造問題の影響,反省,そして将来への展望が示されるべきだったのではないだろうか。

私の知る限り,教育への影響について言及されたのは,第17回東北日本の旧石器文化を語る会(2003年,青森県で開催)での佐川東北学院大学教授の講演のみである。この時の講演では,学校教育における旧石器捏造問題の影響に触れられ,生徒にアンケート調査した結果を示しながら,旧石器捏造問題発覚後数年経った時点でも,多くの生徒の記憶に旧石器捏造問題が記憶されており,様々な影響を残していることを指摘していた。佐川教授はこの結果を踏まえ,教育現場における旧石器捏造問題の影響に対して,考古学研究者がどのように向き合うのか,真摯に考えるべきといった趣旨の話をされていた。

一般市民から見た場合,研究の問題点のみを挙げて反省の弁を語ったところで,単なる言い訳にしか聞こえないだろう。考古学界内では,旧石器捏造問題は旧石器文化研究者の問題であり,問題となった遺跡に関わった研究者や問題となった遺物を積極的に評価していた研究者の問題,との印象が強い。しかし,一般市民から見たら,「日本の考古学界」全般の問題であり,日本の教育に深く携わっている組織の構成員としての立場も踏まえ,国民や地域住民に対して説明責任を負っていると感じるのが普通だろう。そのような認識と責任を感じている日本考古学研究者は,果たしてどの程度いるのだろうか。

この点を乗り越えなければ,旧石器捏造問題に限らず,考古学全般に対する一般市民との社会的合意形成は到底望めないだろう。
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2009年02月16日

日本考古学協会設立60周年記念講演会●東北会場に参加して(1)

以前アナウンスした日本考古学協会主催の講演会に参加した。
個人的には,学ぶべきものが多々あった。しかし,本blogでは,旧石器捏造問題についての側面から今回の講演を振り返ってみたい。


まず最初に,触れておきたい点が1つある。
知人から教えていただいたのだが,本blogでアナウンスした当時は,後援に「宮城県教育委員会」があったが,最終的には外れている。
どのような経緯があったか不明だが,なぜ途中から後援を降りたのか,非常に不可解である。


順番が前後するが,最後の総合討議・質疑応答についてから述べる。
開会前,資料とともに質問用紙が配布され,質問のある参加者は質問用紙に記入して総合討議・質疑応答の前までに事務局へ提出するよう指示があった。そこで私は,次の2点を趣旨とした質問を提出した。

1 富沢遺跡における旧石器捏造問題について。
2 旧石器捏造問題について,考古学界が教育関係や一般市民に対して,如何に社会的合意形成を目指してきたのか。

時間の範囲内で質問が取り上げられ,総合討議・質疑応答の司会者(渋谷孝雄氏)が質問を紹介しながら進行するものと思っていたら,氏名を明らかにした質問については質問者本人が講演者に質問するスタイルで進められた。
旧石器捏造問題の質問は私を含めて2つあり,1つは匿名で司会の渋谷氏から紹介があった。私の質問は私自身が会場で質問したが,先に挙げた2点のうち,1についてのみ質問させていただいた。2については,ほとんど私の意見だったため控えた次第である。
本blogでは,私の2つの質問趣旨を中心に私見を述べる。


旧石器捏造問題を取り上げた発表者は,開会挨拶の3氏(菊池日本考古学協会長,辻宮城県考古学会長,佐藤仙台市博物館長)を始め,阿子島氏,小野氏であった。考古学研究者の中で旧石器捏造問題を取り上げなかったのは,仙台市富沢遺跡保存館学芸室長の木村氏のみであった。
木村氏の講演内容は,富沢遺跡保存館の開館準備と運営が中心であり,敢えて考古学的視点を極力外した感があった。総合討議・質疑応答の冒頭で講演者各氏から補足説明が行われた際も,木村氏は生涯学習や学校教育との関わりを強調されていた。しかし,それが旧石器捏造問題を取り上げなくて良いとはならない。富沢遺跡保存館を教育に活用していくのであればこそ,旧石器捏造問題の渦中に置かれた富沢遺跡の立場をきちんと説明しなければ,つまり,どれが考古学的事実でどれが捏造によるものなのかきちんと示すことができなければ,富沢遺跡の教育教材としての価値は無いだろう。それとも,旧石器捏造問題と富沢遺跡との関係について,既に一般市民は十分理解していると思っているのだろうか。
少なくとも私には,富沢遺跡保存館が,旧石器捏造問題に対して意見表明した記憶はない。来館者や関係者に対して内々で説明したことはあるのかもしれないが,一般市民を意識した意見表明や説明は,富沢遺跡保存館として一切行ってこなかったのではないのか。
そのような状況の中で司会者の渋谷氏が言うように,「協会等の検証の中で,(藤村氏が発見・発掘に関わっていない)富沢遺跡27層出土の石器群は問題なしと結果が出ているため,事務局側としてその説明を依頼しなかった。」といった理由が,果たして一般市民に通じるだろうか。協会の検証報告書をみれば,富沢遺跡についてどのような検証結果が出ているのか明らかである。しかし,それが考古学研究者間で理解されたとしても,一般市民に対してきちんと説明されたことにはならない。そうした説明責任も考古学界が負っており,捏造の疑いを向けられた遺跡の1つである富沢遺跡について,その遺跡名を冠した博物館が率先して説明責任を果たすべきであろう。一般市民向けに旧石器捏造問題との関係を説明できる数少ない(あるいは最後のチャンス)であった今回の講演会で,主催者側から要請がなかったとしても,富沢遺跡保存館(しかも学芸室長)からの発表にのみ旧石器捏造問題が出てこなかったという事実は,非常に深刻な問題を今後に残してしまったと感じた。


富沢遺跡と旧石器捏造問題との関わりの中で,私が未だに怒りの収まらない記載がある。それは,2001年3月30日に増補改訂として発行された旧石器考古学辞典(旧石器文化談話会編集)の「増補改訂にあたって」である。
同辞典の後半に,富沢遺跡について次のように記載されている。

なお富沢遺跡については,焚き火跡が検出されており,遺跡それ自体の捏造はないものと判断し,削除対象から除外しました。

富沢遺跡の発見の経緯や発掘状況を確認すれば,焚き火跡とその周辺に確認された石器群の第27層文化層については,藤村氏の関わりがないことは明らかである。捏造の疑いありとされたのは,第25層及び第26層出土の石器群である。石器の検証調査でも,第27層は問題なしとされている。これらは日本考古学協会の検証報告書で説明されているので,興味ある方はそちらを参照していただきたい。
また,富沢遺跡保存館の地下展示では,第27層の焚き火跡や石器群と25層から27層にかけての植物遺体(根株)で構成されており,捏造に関係する部分は展示されていない。
旧石器考古学辞典増補改訂が発行された当時は,日本考古学協会の検証作業は終了していない。富沢遺跡に対してこのような記載をするのであれば,編集者である旧石器文化談話会が自ら富沢遺跡保存館に対して事実確認し,必要に応じて同会が調査した上で同辞典を発行すべきであろう。
そもそも,焚き火跡のみを取り上げて捏造でないとするのは無理があるのではないのか。第27層石器群との関係を認めればこそ「焚き火跡」と理解されるのであって,単なる炭化物の集中であれば,落雷等の原因による自然発火によるものとどのように区別するのだろうか。仮に第27層石器群の評価を留保しても,植生学や古環境学としては,貴重な遺跡であることに変わりはない。しかしそれでは,富沢遺跡は考古学遺跡とはならないのである。
科学的根拠を一切示すことのないまま,上記の記載を収めた書籍を発行した旧石器文化談話会の責任は,非常に重い。
同じく「増補改訂にあたって」にあるように,

現時点で学術的価値を確認できないものを収載することは,辞典としての性格および執筆者の研究者倫理から許されることではないと考えます。

とするならば,富沢遺跡第27層の理解を,学術的科学的に自ら検証しないまま同辞典増補改訂を発行することは,「研究者倫理から許されることではない」と考えなかったのだろうか。

またこの同辞典増補改訂に対して,富沢遺跡保存館が何らかの意見表明等を行った事を私は知らない。検証調査の最中だったからかもしれないが,このような発言に対して,少なくとも第27層の遺稿や石器群についてきちんと説明すべきだったのではないのか。もちろん,ここでも考古学研究者のみではなく,一般市民に対しての説明も必要であり,より重要であろう。


旧石器捏造問題で名前の挙がった遺跡のうち,調査区内における藤村氏の関わりがはっきりとしており,それが遺物としても区別できる遺跡は,富沢遺跡くらいではないだろうか。しかも,開館当初から,博物館展示に捏造の疑いのある石器がほとんど使われいなかった(1階常設展示で1か所展示されていた)。また,調査報告書(第30次調査報告書2)でも,第25層及び第26層石器群の記述は,第27層石器群の記述と異なり,慎重な記述の印象を受ける。
旧石器捏造問題が発覚するまで捏造という意識はなかったと思われるが,なぜ富沢遺跡では,藤村氏関与石器を分けて考えていたのか。この辺の問題整理を行うことが,旧石器捏造問題に対する考古学界の反省材料の重要な1つ,しかも今後の考古学研究に繋がる契機となるような気がするのだが,考古学研究者から何ら聞くことができないのは残念である。
それとも,単なる素人の思いつきに過ぎないのだろうか。
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2008年12月06日

雉馬(きじうま)の由来

雉馬を購入した際,付いてきた解説文が出てきた。
雉馬等の由来がまとめられていたので,ここに引用する。
寿永の昔(約八百年前),壇の浦の戦いに敗れ,九州の山間に落ちのびて来た平家の一族は,さらにその一部が,球磨の領主矢瀬氏を頼って人吉にやって来たといわれる。
しかしすでに,平家に縁のあった矢瀬氏は滅ぼされ,源氏の地頭相良氏の世となっていた。
頼りを失った彼らは,さらに逃れて,人吉の奥地木地屋や大塚地区に永住の居を定めたという。
しかし,去来するものはかつての都の栄華の夢,そのさびしさを慰めるために作り始めたのが『木地屋御器』であり『キジ馬』や『花手箱』や『羽子板』であった。荒削りの桐木(ぎつ)に模様を入れ,松の輪切りを車としただけの無雑作なものに,くちなしの花の黄,麦の穂の緑,イセビ(ハクサンボク)の実の赤を草木染めにした素朴な,それでいて鮮烈な色彩の玩具は,貴族の高貴な香りと,芳醇な南国の土俗の匂いとをただよわせる芸術品に育っていった。
毎年二月の,人吉のえびす市(いち)は,二日町・五日町・七日町・九日町の順に開かれ,露店に並べられた『キジ馬』は男の子,『花手箱』(香箱)は女の子への土産物として,郷の人はかならず買って帰るならわしとなった。
『キジ馬』の頭に書かれる【大】の一字は,大塚の製作者の家に養子となって入りこみ,その製作の秘伝を盗んで逃げ帰った若者が,後世その罪滅ぼしと,養家への感謝の気持ちを篭めて書くようになったといわれている。

創作伝承八百年
元祖郷土玩具製作所 住岡忠嘉
posted by itoh at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 考古学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする