2008年12月06日

雉馬(きじうま)の由来

雉馬を購入した際,付いてきた解説文が出てきた。
雉馬等の由来がまとめられていたので,ここに引用する。
寿永の昔(約八百年前),壇の浦の戦いに敗れ,九州の山間に落ちのびて来た平家の一族は,さらにその一部が,球磨の領主矢瀬氏を頼って人吉にやって来たといわれる。
しかしすでに,平家に縁のあった矢瀬氏は滅ぼされ,源氏の地頭相良氏の世となっていた。
頼りを失った彼らは,さらに逃れて,人吉の奥地木地屋や大塚地区に永住の居を定めたという。
しかし,去来するものはかつての都の栄華の夢,そのさびしさを慰めるために作り始めたのが『木地屋御器』であり『キジ馬』や『花手箱』や『羽子板』であった。荒削りの桐木(ぎつ)に模様を入れ,松の輪切りを車としただけの無雑作なものに,くちなしの花の黄,麦の穂の緑,イセビ(ハクサンボク)の実の赤を草木染めにした素朴な,それでいて鮮烈な色彩の玩具は,貴族の高貴な香りと,芳醇な南国の土俗の匂いとをただよわせる芸術品に育っていった。
毎年二月の,人吉のえびす市(いち)は,二日町・五日町・七日町・九日町の順に開かれ,露店に並べられた『キジ馬』は男の子,『花手箱』(香箱)は女の子への土産物として,郷の人はかならず買って帰るならわしとなった。
『キジ馬』の頭に書かれる【大】の一字は,大塚の製作者の家に養子となって入りこみ,その製作の秘伝を盗んで逃げ帰った若者が,後世その罪滅ぼしと,養家への感謝の気持ちを篭めて書くようになったといわれている。

創作伝承八百年
元祖郷土玩具製作所 住岡忠嘉
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2008年12月04日

日本考古学協会設立60周年記念講演会●東北会場

日本考古学協会ウェブサイトからの転載。
●東北会場
日本考古学協会設立60周年記念・仙台市富沢遺跡旧石器発見20周年記念講演会
「氷河期の森からのメッセージ」


 * 期日:2009(平成21)年2月15日(日) 10時00分~16時30分
 * 会場:仙台市博物館講堂(宮城県仙台市青葉区川内26)
 * 主催:日本考古学協会
 * 共催:宮城県考古学会、仙台市教育委員会、仙台市富沢遺跡保存館
 * 後援:宮城県教育委員会、東北日本の旧石器文化を語る会
 * その他:参加条件 申込み不要、入場無料

【プログラム】
 9:30~     受付開始
 10:00~10:10 開会挨拶
 10:10~11:10 「『地底の森ミュージアム』の開館と普及活動について」
   木村浩二(仙台市富沢遺跡保存館学芸室・室長)
 11:10~12:10 「復原された東北地方の最終氷期の森とその変遷」
   鈴木三男(東北大学学術資源研究公開センター・センター長)
 12:10~13:10 休憩
 13:10~14:10 「遺跡内の遺物分布から旧石器人の活動を探る -考古学と民族学の接点-」
   阿子島 香(東北大学大学院文学研究科・教授)
 14:10~15:10 「酸素同位体ステージ3の考古学 -旧石器時代研究の進捗のために-」
   小野 昭(首都大学東京大学院人文科学研究科・教授)
 15:10~15:30 休憩
 15:30~16:25 講演者による総合討議、質疑応答
 16:25~16:30 閉会挨拶

東北会場として東北六県のうち宮城県を選び,且つ旧石器をテーマとして,日本考古学協会設立60周年記念講演会が行われる。当然,2000年に発覚した旧石器捏造問題は避けられない話題である。
公式アナウンスを見る限り,旧石器捏造問題に関する発言があるか,不明だ。

仙台市富沢遺跡保存館が20周年を迎える年と重なっているので,それを抱き合わせて行うということに異論はない。
しかし,旧石器捏造問題に全く触れないわけにはいかないだろう。仙台市富沢遺跡でも,展示部分(27層)以外ではあるが,25層及び26層出土の石器は,捏造された疑いが濃いとされている。
<参考図書>『前・中期旧石器問題の検証』日本考古学協会編

少なくとも,自然科学分野の話題となる鈴木三男氏以外の各氏の講演では,多少なりとも旧石器捏造問題に触れるべきである。また,小野昭氏の講演テーマの副題には「旧石器時代研究の進捗のために」とあるわけだから,ここではしっかりと旧石器捏造問題に触れるべきだろう。
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2008年11月03日

打棒状木製品

最近,仙台市富沢遺跡保存館で開催されている,「第47回企画展 平野を拓いた木の道具 農具のはじまり」を見学した。
展示遺物に,「打棒状木製品」と「竪杵」があった。いずれも脱穀作業に使用されたと推定されるもの。しかし,この両者を比較すると,稲の脱穀の場合,竪杵の方が効率よく脱穀できるらしい。それでは打棒状木製品は,別の用途に使用されたのか。両者はいずれも,仙台市中在家南遺跡の弥生時代中期のものとのこと。調査報告書で確認したわけではないが,全くの同時期に使用されていたとすると,両者の並存をどのように考えるべきなのだろうか。

ひとつの可能性を,土屋又三郎氏著『農業図絵』に見出した。
展示されていた打棒状木製品と似た道具が,同書の「十月」の項の,「小豆の脱穀調製」及び「大豆の脱穀調製」に見ることができる。
両図絵の解説によると,

小豆は,
たたくと莢がおもしろいようにはじけ,赤い小豆がとび出てくる。

大豆は,
小豆にくらべて莢が固く,かなりの力を加えないとはじけにくい。

また,
大豆は小豆以上に栽培面積が多く,したがって収量も多かったことから,大豆打ちは重要な仕事であり,晩秋の農村をかざる風物詩の一つでもあった。

『農業図絵』の小豆及び大豆の脱穀調製図絵とその解説から,私が考えたのは,打棒状木製品は脱穀作業に使用された道具であるが,稲以外の作物,特に脱穀しにくい大豆などの作物に対して使用されたのではないだろうか,というものである。

もちろん打棒状木製品が,稲の脱穀作業に使用された可能性を否定するわけではない。
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2008年11月02日

水稲における中干し

水稲栽培における「中干し」については,その起源はいつなのか,素朴な疑問を持っていた。
以前紹介した池橋宏氏の「稲作の起源」143ページでは,

中干しという技術は,用水が自由に使え,化学肥料が使えるようになった現代の技術であるが,

と記されている。
しかし,歴史学的にきちんと評価するためには,文献史学研究によるべきと思っていた。

そうした中,古書店で購入してほとんど目を通さずに貸していた文献が最近手元に戻ってきて,何気なく読んでいると,「中干し」についての記載を見つけた。
文献は,日本農書全集26『農業図絵』。
同書解題によると同書は,加賀藩石川郡御供田村の土屋又三郎氏によって享保二年(1717年)にまとめられた。
同書の「六月」の項に,「松任近辺での田の中干し」がある。
この図絵の解説によると,土屋又三郎氏の記した農書『耕稼春秋』では,六月中旬頃に干田をするところがあると記されているらしい。六月中旬というと,大体現在の7月下旬頃にあたる。太陰暦だと年によって月の時期にズレがあるので,太陽暦との対応には注意が必要だが,他に参考となる記述がないので,ここではとりあえず現在の7月下旬頃に中干しをしていたと考える。

現在の水稲栽培における中干しの時期は,羽咋郡市集落農業活動支援センター・羽咋郡市営農推進協議会平成20年5月29日発行の「営農管理情報(pdfファイル)」によると,同地域では6月中旬以降に中干しが開始され,品種にもよるが6月末から7月上旬頃に中干しが完了するという。(羽咋郡及び羽咋市は,石川県の能登半島西側付根辺りに位置する)
江戸時代と現代では農作業時期や品種が異なるものの,現代と大凡同じ時期に中干しをしていたといえないだろうか。

この図絵の解説から,『耕稼春秋』の記載をさらに紹介する。

干田とは,二番草を取ってから水を完全に落とすことである。この折,あぜぎわの土を稲株に沿って深くかき上げ,「ねき」と呼ぶ排水溝をつくって水を落とす。そして,油粕や干鰯をいつもの二倍も施す。

中干しによって稲の根に酸素が供給され,また田の土が相当深くまで乾くので,そのあとで灌水すると肥料の養分が下までしみこんで稲に吸収される。そのため生育がよくなり,収量も普通の田にくらべて五割の増収となる。

ここで紹介した図絵は,中干しのため落水して,追肥を施用している図絵らしい。
追肥は,現代では中干し後の幼穂形成期から減数分裂期あたりに施用するらしいので,ここでも現代と江戸時代とで施用時期に多少のズレはあるものの,大きな違いではない。
なお,

中干しを実行するのは石川郡の村々,とくに松任近辺であって,それも一村にわずかニ,三人にしかすぎない。

とあるので,中干しは必ずしも一般的な作業ではなかったらしい。


以上から,中干しは池橋氏の言うように,現代の技術と言い切れないようだ。
ただ,中干しが一般的になったのは後世のようだ。しかし,それが何時からなのか,まだ私には分からない。
もしかすると,中干しが一般化するのは,池橋氏が指摘している要件から,現代農業まで時代が下るのかもしれない。
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2008年10月05日

岡村道雄氏批判

2008年1月20日,宮城県東松島市の奥松島縄文村歴史資料館主催シンポジウム「日本人は何をたべてきたか?」が開催された。私は事前に同シンポジウムの開催を知っていたが,所用があり参加できなかった。最近,同シンポジウムの資料集を入手したが,そのうち,考古学者で奈文研所属の岡村道雄氏の資料をみて唖然としてしまった。以下,この件について私見を述べる。

最初に,岡村道雄氏の経歴を簡単にみておこう。
岡村氏は東北大学で故芹沢長介氏に師事し,宮城県東北歴史資料館を経て文部省文化庁職員となり,現在に至る。岡村氏は長年旧石器文化研究に従事するとともに縄紋時代研究にも携わり,近著に「縄文の生活誌」がある旧石器捏造問題では,多くの批判を受けることとなる。
なお,故芹沢長介氏門下生でありながら,故芹沢長介氏が後期旧石器文化以前の遺跡とした星野遺跡の石器群を否定したことでも有名である。
旧石器文化研究に関心を持つ私にとって岡村氏は,少なくとも旧石器捏造問題発覚前までは,尊敬に値する研究者と考えていた。

その岡村氏が同シンポジウム資料集にあるような,稚拙な資料を書くとは予想だにしなかった。
私はシンポジウムに参加しなかったので,シンポジウム当日,岡村氏が説明をしたのかは知らない。そのため,以下に示す私見は,あくまでシンポジウム資料批判であることを断っておく。

まず岡村氏の資料の概要をみていこう。

資料タイトル「日本人は何を食べてきたか?」
 1.日本の食生活が危ない
  1)食料自給率の低下
  2)化学肥料・農薬の害
  3)食材を加工し,化学物質を添加
  4)遺伝子組み換え食品など
  5)食文化の崩壊
 2.戦後ころまでと近年の食事
 3.弥生時代以降の食文化
 4.縄文時代の食料
 5.まとめ

このうち,考古学資料に基づく3.及び4.については,特に述べることはない。
ここで問題としたいのは,1.2)から2.についてである。


1.2)についてだが,タイトルから分かるように,化学肥料・農薬に対する批判を述べている。確かに,1980年代までは,農薬による環境破壊は否定できない。その辺りの状況は,レイチェル・カーソンの『Silent Spring』に端的に記されている。しかし,現在においても当時と状況が変わっていないかというと,それは違う。非選択性農薬から選択性農薬の増加により,環境負荷は限定的なものとなってきている。また,岡村氏は人体への悪影響について述べているが,化学物質化敏症を持つ人など特定の人々を除いた大多数は,現在農薬による健康被害は確認されていない。また,保存料について批判しているが,食品への保存料使用の有無によるリスクについて,岡村氏は何も語っていない。保存料を使用することで,食中毒のリスクが低減する。保存料や残留農薬によるリスクよりも,保存料を使用することで食中毒のリスクが低減することのベネフィットの方が明らかに大きい。そもそも,農薬は近代以前から使用されているのは歴史学的に明らかで,科学技術の発達によって製剤化された農薬が流通するようになるのが近代以降なだけだ。特定農薬の指定が保留されている木酢液は近代以前から利用されていたようだが,科学技術の発達によってその安全性に疑問が投げかけられている資材であることを忘れてはいけない。

1.3)では,安部司氏の著書『食品の裏側』のみを参考文献として,食品添加物批判を述べている。安部氏の著書の間違った見解についての批判は,インターネット上で幾つか見つけることができる。FoodScienceでも,幾つか批判記事を見つけることができる。岡村氏は,食品添加物に対する賛否両論を知った上で評価することなく,無批判に安部氏の著書を受け入れ,それを基に資料を作成している。その行為は,専門は異なるものの,研究者としての良識を疑ってしまう。

1.4)では,遺伝子組み換え食品の安全性に疑問を述べているが,その根拠が示されていない。そもそも遺伝子組み換え食品と一言で言っても,安全性評価が行われているものから安全性評価がまだのものまである。それらを一纏めにしてその安全性に疑問を示されても,答えに窮する。少なくともGMOとして最初に登場した食品は,登場後10年以上経ているが,大きな健康被害等,具体的な問題点を指摘した話は聞かない。
しかも,ここでは鳥インフルエンザ問題への疑問も述べているが,鳥インフルエンザ問題は,いわゆる新型インフルエンザウイルス発生のトリガーとして問題視されているわけで,食品としての鶏肉の安全性に関わる問題ではない。この点は,明らかに岡村氏の認識不足だ。

1.5)では,「人間だけが家族を核として食料を獲得し,食卓を囲んで分かち合いながら供に食べて」と述べている。しかし,本blogで以前紹介した「生活技術研修館だよりNo.14 」を見れば分かるように,近代以前から食卓を囲んで和気藹々と食事を取っていたことは,幻想に過ぎないことは明らかだ。この点は,岡村氏の専門とする時代とは異なるものの,歴史学・考古学の研究対象であり,きちんとした科学的評価をすべきところである。考古学者である岡村氏の,考古学者としての見識にさえも疑問を持たざるを得ない。

2.では,個人の食生活の変遷について,考古学者森浩一氏の著書『森浩一,食った記録』のみを参考文献ととし,個人の食生活研究は森氏の著書しか無いような印象を受ける。森氏の著書は自身の経験を基に詳細な記録となっており,その著書への評価を否定するものではない。しかし,森氏の著書以外でも,民俗関係や農業関係・特に各地の生活改良普及員たちが残した資料なども,重要な歴史資料である。そうした資料をひとつとして取り上げないまま述べられても,限定された一事例を挙げているに過ぎない。


以上,岡村氏の資料を批判してきた。
こうして見てみると,文献資料に偏りがあったり事実確認が不足している等,どの分野の研究者であってもやってはいけない,基本的な研究手法の欠如が目立つ。しかも1.5)や2.で批判したように,考古学者としてきちんと確認をした上で述べるべき話題さえも,かなり偏った説明となっている。

本シンポジウムは,一般向けであって研究者向けではない。だからこそ,誤った情報を提供しないよう,十分なクロスチェックすべきだろう。旧石器捏造問題で批判を受けたとはいえ,岡村氏は一般受けする考古学者だと思う。そういう立場の岡村氏が発した情報は,一般の人々に無批判で受け入れられる恐れが大きい。今回のように,見るに耐えない内容の資料を公にするのは,大きな問題である。
岡村氏は,旧石器捏造問題における自身への批判をどのように受け止めたのだろうか。自身への批判を真摯に受け止め,学術研究の基本に立ち返ったのであれば,今回のような資料を作成することはなかったはずだ。一時期とはいえ,尊敬していた研究者からこのような低レベルな資料が公にされるのは,怒りを通り越して悲しみさえ感じてしまう。
posted by itoh at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 考古学 | 更新情報をチェックする